71.エレキギターとの出会い(高校時代編)

エレキ・ギターとバスケとの初めての出逢い(高校時代)




高校時代は、殆どバンド活動は行えなかった。と、一言で云えばそうなる。
中心は、バスケになった。目指すは全国大会です。当時、入学した文京区のK高校はバスケが東京都で一番強く、毎年全国大会に出場していた。
事実、高校の3年間は東京都の代表で、代々木体育館やインターハイにも連続で出ている。
中学校のレベルで上手くても、全国からそのスポーツで名前を極めた者が、一同に集まってくるとそれは熾烈な競争となる。
これは、バスケに限らずどんなモノでも大勢の中から、勝ち上がるためには元々の天性と並々ならぬ努力しかないといえる。
1年生だけで、100人を超える新入生が入部した。僕もその中の1名。

小学6年の卒業前から中学3年間一緒に活動を行ってきた、エレキ・バンドも自然と解散という結果になったのが、僕らが高校入学間もない5月の連休前だったと思います。(事実、バンド仲間もそれぞれの高校で、部活で練習が出来なかった)

僕の入った高校は、質実剛健の校風のある学校で、1年生は全員、文京区の学校から筑波山まで徒歩で一昼夜かけて歩く。(特に体育会系の者は、落伍者が1名でも出れば、連帯責任で全員頭を五厘坊主に丸めるというのも、この高校の仕来り)

50kmの距離をテクテク歩くのです。始めはの頃は、友達と雑談しながら余裕を以ていたが、懐中電灯を着けた夜くらいから、みんな無言でひたすら、筑波山を目指して歩いた。幸い、我々バスケ部員から落伍者は出なかったが、辛かったが今となってはいい思い出。

更に、夏休みは、同じ文京区から伊勢神宮まで、自転車で旅行する行事にも参加した。(これは、参加するのに費用が掛るので希望者のみだったけど、150人を超えていたと思う)

自転車で、東海道を通り箱根の山越え、鈴鹿峠とこれも沢山の思い出がある。 この行事は、名物となっておりでNHKや民放の放送局が取材に来ていたが、その後卒業後に交通量の激化に伴い廃止となりった。残念!

バンドの話に戻って、結局3年間では高校の文化祭でのにわかバンドを結成して演奏したくらいだった。
音楽界も、エレキ・サウンドからフォーク・ロックへ転換しており、主だったGSもフォーク・ロック調のレコードになっていた。
この3年間は、高校の友人と、フォーク・バンドを趣味でやっていた。

夏になると3年間、バスケ合宿のお金を捻出する為とギターを購入する為に、竹芝桟橋にあるT汽船でアルバイト(僕ら高校の先輩から後輩へと受け継がれていた)をしていたなァ。この話も沢山の、面白い出来事があった。
3年間で知り合った女性は大勢いました。所謂、ナンパというモノです。

冬は冬で、N通運で、荷物運びのアルバイトでやはり合宿費用と、ギターやレコード代の捻出の為にせっせと仕事をした。

そんなこんなで、高校生活の中心は、全てをバスケに捧げ、休みはアルバイトに精を出した3年間だった。

肝心のバスケでは、3年間でレギュラーには一度もなれなかった。悔しいが!実力の社会だから仕方がなかった。全てが備わっていないとレギュラーは取れない。
1年の学年末には、その実力を悟ったが、残り2年もクラブに籍をおき、裏方に徹し頑張ったのは、後の社会人生活にとって大きな財産となった。

先日のバンド練習終了後、高校時代の話を酒を呑みながら語りあった際に、十回以上は、シャークスとして練習をしたようです。
ただ、エレキ・インストやGSのコピーではなく、ハードロックを中心に演奏したようです。そう皆に云われて記憶の糸を手繰ってみると、高校時代はフォー・ソングだけではなく、グランドファンクやツェッペリン等の曲をコピーして練習したことがあったなあ~と。
更に、バンド活動が出来なくなったのは、みんなが言うには全て、僕が参加しないから解散になったと(ずいぶん酒が入った、26時頃の話)確かにバスケの練習で毎日、自宅に帰ってきたのは真夜中ばかりで、休日も部活の練習で殆ど高校に行っていたから。バンド活動どころではなかった。

次は、波乱の大学生編になります。


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